映画「マイマイ新子と千年の魔法」をみたよ(途中からネタバレあり注意)

 mixiからの転載になります。こっそり身近な方にだけ読んでいただく予定でした。ですが、より多くの人に見てもらいたい映画だったので、相変わらず拙い文章で何かの助けになる可能性は低いとは思いますが、ここに記すことにしました。本当に、たくさんの方に見てもらいた映画だったのです。


 
 客がどえれー入らなくて、なんか2週打ち切りの劇場も多いといううわさのアニメ映画「マイマイ新子と千年の魔法」を見ました。公開2日目に。さっさと感想書けという話ですね。はい。ちなみに、公開二日目の初回なのに俺含め3組しか人おらんかった。うう
 
 で、感想ですが。結論から言うと、ものすっごく良かったです。
 どのくらい良かったというと、冒頭からラストまで、ずっと涙目だったくらいに。
 感動した!というかなんというかね、(俺個人が)失ってしまったもの、失われずに脈々と受け継がれてきたものが瑞々しいタッチで描かれていて、それが俺のどまんなかにずしっと刺さってきて、終始抜けないままだったんです。子供達を中心に、みながみな日々の営みを大事にし、逞しく生きる姿をいきいきと描いた傑作です。千年前も、千年後もそれは変わらない、ということを説教臭くなく、スキャットに乗せて軽やかに描写されていました。

 あと、なんか、妙にフェティシズムを感じる映画でもありましたことよ。ほそっこい脚とか。新子と貴伊子が縁側で寄り添って雑誌を覗き込むカットとか妙な魔力(?)が宿っていてキィヤアアア!ってなった(←このひとやばい)。

 今見ないと、もう、すぐにでも劇場から消えてしまいそうなので、とにかく速攻で見に行くべき映画です。昭和30年代の情景描写がはんぱねーのでDVD待ちとかではなく映画館で見るべき。

 以下ネタバレ感想。






 新子の目に映る「千年の魔法」。それは千年前の風景を空想し、その中に溶け込むこと。大好きなおじいちゃんから語り継がれた千年前の風景を自分のホームの上に描き出し無邪気に浸る新子はしかし、「夢見がちな子」とは描かれず、むしろ積極的に、それをひとつの遊びのツールとして、孤独な転校生の貴伊子と共有しあう。
 自分の中の、そういう「妄想」に近いビジョンを他人にさらけ出すのはかなり気恥ずかしいものだが、新子に迷いはなく、ひとりでそうしていたように、貴伊子とともに千年の遊戯に没頭する。その日の夕方、貴伊子は感動し、「新子ちゃんがいれば寂しくない」とうそぶくが、新子は「そういうことじゃなくて」とすぐさま否定する。貴伊子は悪く言えばすぐに逃げ小路を作って引きこもってしまう内向的な子で、千年の魔法はそれに適したツールであったろうが、新子は千年の魔法に「広がり」を見出すタイプの子だ。その世界を誰とも分かち合える、とたぶん本気で思っている。そうして、貴伊子にも複数の友人が出来るようになっていく。
 そういう点で、新子は主人公というより「ヒーロー」のように俺には映った。その時点では。おそらく当初の貴伊子にも。

 その遊戯の中で、ふたりは発掘現場に遭遇し、そこから発掘されるものを見て、千年前にも人形のような玩具が存在していたか疑問に思う。ふたりが人形遊びをしていたように千年前にもそういう子供達はいたのだろうかという問いの先に、彼女達は千年前の孤独な少女の姿を空想(幻想?)する。彼女には友達はいただろうか。人形ごっこは、ちゃんとできただろうか。ここから、千年の魔法は千年前の孤独な少女を中心に展開されるようになる。イマジネーション豊かに千年前の世界に彩りを加えるふたりの姿は実に微笑ましく、また逞しくもあった。

 (このへんで、俺の子供時代にも、空想を共有する新子か貴伊子みたいな友達がいたらなあ、という、それこそ過ぎ去りしむなしい幻想をスクリーンの外に視て、それはそれはせつない気分に拍車がかかる。どーしょーもない)

 さて。
 この作品が特異なのは、ふたりの主人公の物語がまっぷたつに分岐して描かれるクライマックスにあると思う。

 貴伊子がやってきてから数ヶ月経ったある日、新子達のリーダー的存在だったタツヨシの父が自殺してしまい、新子は困惑する。タツヨシの父は住人に親しまれている頼れる警官だった。新子自身も尊敬していた、立派な大人のひとり。噂は町中を駆け巡り、新子の家族達もまことしやかに根も葉もない噂についてあれこれ詮索し始める。そんなわけがない、そんなもの嘘だ、誰か否定して。心の中で懇願する新子。そこに敬愛する祖父が割って入り、あまり無神経なことを言うものではない、と注意する。が、結局その祖父も、新子が否定して欲しいこと−借金苦からの自殺−を否定してはくれなかった。
 新子は千年の魔法を、捨てた。いやな現実を否定してくれない祖父から受け継いだあれは結局まやかしだったんだと。そして、新子はタツヨシとともに、タツヨシの父の死と関わりのあるというバー・カリフォルニアに殴り込みをかける。
 この急転直下振りには少々面食らった。そしてそこに描かれる夜の繁華街のいかがわしさもまた生々しく、今まで見てきた青く茂る広大な稲穂畑とのギャップにめまいを覚えた。新子が踏み込んでいい領域ではない。

 そんな、いきなり若い衆が(若すぎる)親の仇のためにカチコミをかけるチンピラ映画となりかけたところに、「貴伊子パート」が割って入る。貴伊子は深い事情は知らず、ただ「新子が千年の魔法を捨てた」事実のみ知らされる。それを知った貴伊子は新子とは真逆の行動を取る。千年の魔法と向き合う。それは幻想への逃避ではない。「千年前の少女の孤独を救う」、それもまたまごうかたなき「現実との戦い」であった。
 ……なんかちょっと倒錯的、というか、あべこべ、というか、見るものに混迷をきたすクライマックスであった。
 怒りと衝動でもって真実を暴かんとする新子と、親愛と情熱でもって孤独な心を救わんとする貴伊子。同化しかけたように見えたふたりのメンタリティはしかし、まったく違う方向を指し示す。そりゃそうだよ、彼女らは全く別の人間であり、同一人物ではない。当然のことだが、そこを見失うアニメ作品も世には多い。溶け合うのではなく、寄り添って別々の方向を見ていた。
 ふたりの戦いの行方は省くが、彼女らは事件解決後、以前のようにまた寄り沿いあっていた。ここから貴伊子視点でダイジェストのようにあっというまに数ヶ月が描かれ、祖父にまた何かを教わるシーンも挿入されるが、新子が千年の魔法を取り戻したか否かには触れられない。ただ、ふたりは友達であった。そして、新子の引越しを笑顔で送る貴伊子を描いて、物語は幕を閉じる。
 
 なんというか、途中で主人公が交代してるような錯覚を受けたんだ。「千年の魔法」が物語の中核にあると仮定したら、後半は明らかに貴伊子がヒーローだったし、それによって成長して自立できるようになった貴伊子の物語だったようにも思える。これは不思議な感覚であったな。別に新子が道を誤った、というわけでは当然なく。もしかすると、新子が千年の魔法を捨てたから、くしくして寄り添わなくても生きていける術が身に付いた、ということであったのかも。それは別に友情なんていらねーよ、という話ではなく、友達は寄りかかる添え木じゃないんだよ、というか。うーん上手く説明できないが。が、ラストの貴伊子の表情からは当初の頼りなさは消えていて、たやすくは揺るがない頼もしさが現れていて、それはそれは嬉しくてたまらなかった。いつのまにか父親視点で彼女らを見守っていたのだな。……時代設定的には親の世代だが。

 とにかく。感傷的になったりもしたけど、トータルではとてもすがすがしい気分に満たされる、良い映画でした。
 重ねて言うが。興行的にやばそうなのですぐにでも劇場行かないとみれんくなるど!ハリー!ハリー!