映画「君の名は。」感想 もうひとつの「君の名は。」

ちょっと鑑賞から時間が経ちましたが「君の名は。」感想です。ネタバレありです。



新海誠監督がこれまで描いてきたこと。
それは、青春の全てを投じた恋愛がやがて後方に追いやられようと、「それでも人生は続いて行く」ということ。
彼・彼女が結ばれようが結ばれまいが「あの頃」は二度と訪れず、ラッシュアワーに揉まれ改札をくぐる日々に戻っていく。
そのはかない恋物語が時として永遠の別れで終わろうとも、彼・彼女の人生という物語は続いていくのだ。
そして、「君の名は。」もそうした物語であった。
瀧と三葉はお互いを忘れても、その痛みだけは抱えながら今という時を懸命に生き続けた。
それは何も二人の間にだけあったわけではない。そのことについて記そうと思う。


新海監督の新作映画「君の名は。」は、出会ったことのない「君」と出会うまでに少年少女が日々を駆け抜けるさまを描く。
その結末は大団円と呼ぶにふさわしい堂々としたものだ。
過去作に比べれば爽快な後味となっているが、新海誠監督らしさは色あせていなかった。
君の名は。」にはいくつかの出会いと別れが描かれていた。たとえば、三葉と奥寺先輩だ。


瀧は三葉との入れ替わりによって、憧れの奥寺先輩と急接近することになる。奥寺先輩がのちに「好きだったんだ、私」と述懐するように、彼女は瀧に恋をしていた。
その「瀧」とは、三葉と入れ替わった状態の瀧を指している。
やぶれたスカートにかわいい刺繍を施したり、一緒におしゃれなカフェを巡ったり、ついにはデートの約束にまでこぎ着けた「瀧と入れ替わった三葉」に恋をした。


しかし、奥寺先輩に「瀧」と「瀧ではない誰か(三葉)」を区別する術はない。なんとなく、ざっくりと「あの頃の瀧くん」としか言えないであろう。
鑑賞した我々が映像*1をつぶさに観察すれば「何月何日と何月何日、もしくは何月何日の瀧くん(つまり三葉)が好き」と指摘できるのかも知れない。
しかしそれはあまり意味のある行為ではないのかも知れない。「瀧と入れ替わった三葉」を呼び水として、普段の「本当の瀧くん」に目を向ける時間もあっただろう。
そこはもう時間と感情が溶け合っていて、もはや判別のしようがない。瀧から三葉は去った。「あの頃の瀧くん」には二度と会えない。
未来において、瀧の仲介を経て奥寺先輩と三葉が出会う可能性も、なくはないだろう。
瀧と三葉の、お互いについての記憶が消えたのち、瀧がテッシーの名前を聞いて一瞬反応したように、奥寺先輩の名を聞いて三葉がなんらかのひらめきを得ることはありえるのかも知れない。
しかし、奥寺先輩が「三葉」の名前を聞いても、何のひらめきも訪れない。なぜなら、彼女にとって「あの頃の瀧くん」も、瀧には違いないからだ。別人と接していたという認識がない。仮に会えたとして、それは恐らく奥寺先輩の望む「あの頃の瀧くん」とは別人だ。
奥寺先輩が三葉の名を問うことは未来永劫、過去永劫においてありえない。出会ったことのない名前だから、何も起きない。その恋心は永遠に閉ざされる。例えば、宇宙と地球に引き裂かれた恋のように。
奥寺先輩と三葉の出会いは「世界の秘密」として閉ざされた。しかし、奥寺先輩は次の恋を見つけ、新たな自分の物語を紡ぐ。永遠と呼べる別れを経てもだ。
その在り方は新海監督がこれまで描き続けてきた主人公たちの姿を彷彿とさせる。


もう二度と、いや一度も君の名を問わず、しかしそれでも自分の物語を紡ぎ続ける。そういう有り様に、新海監督はこだわり続けた。その想いのひとつの結実が「君の名は。」にあるのだろう。

*1:スマホの日記アプリの日付など