白鷺千聖と瀬田薫の過去に迫るエピソード「幼き日の面影は今もそばに」が公開されました。
以下、ネタバレになります。御注意を。
まず最初に、今回のイベストでは白鷺千聖と瀬田薫の「すべて」は描かれていません。
これまでのエピソードで空白だったふたりの過去についての物語ですが、意図的に虫食いの状態になっています。
ドラマの中での役作りと、現実の、そこにいる人間の人格を無頓着に結んでしまう時期の子供たちに囲まれ、のちに天才子役と呼ばれる千聖の精神は徐々に蝕まれていきます。そんな彼女の唯一の理解者とも言える薫は無力で、千聖に「大丈夫だから」としか言えません。
ある日、突然吹っ切れたかのように明るく振る舞う千聖。薫はそれを不自然に思いますが、具体的には何もできません。
それで、終わりです。
白鷺千聖と瀬田薫の「ふたり」の物語は、そこでおしまいです。
千聖は「折り合い」をつけたのだと思います。クラスメイトとドラマごっこもできる。そうやって、徐々に折り合いをつけて、素の白鷺千聖でも女優の白鷺千聖でもない仮面を身につけていく。小学生の時点で「外面」を完成させつつある、その残酷さの速度に薫は追いつけません。
その時のことを、薫はこう語ります。
「それからも君との友人関係は今日までずっと続いているが、あの日を境に君は『プロフェッショナル』な存在になったように感じたんだ」
「フフ、懐かしいね。君の門出の瞬間だ」
薫はいつものように朗々と、しかし感情を少し遠くに置いてきたような……。そんな声音で語るのです。その時のことを卑下したり、ましてや美化したりもなく。
千聖と薫は別々の高校へ進学し、疎遠になります。しかし、それこそが、はばからず言ってしまえば、たったそれだけのことが、それぞれの「自己」を獲得する第一歩となったのです。
皮肉な話です。そばにいるとき、薫は無力だった。千聖を守ってやれなかった。クラスメイトの誤解を解く行動を、何も取れなかった。
これ、おかしな決意で、千聖の「強さ」に疑義を呈していたはずなのに「ああなりたい」と言っている。
「臆病な私」から変わるためには千聖のようにもうひとりの自分を装う手段が必要ということなのか。それは悲しい話ですが、私たちの知る薫は嘘、偽りを言わない人。つまり、自分のまま、千聖の望む「臆病で優しいかおちゃん」のまま、彼女は変わったのです。
「ちーちゃんみたいな強い人」とは、一言で言ってしまえば「孤高」です。
誰に寄りかかることなく、自分の足で立って歩いていける人のこと。「自立した人」とも言えるでしょう。
薫はこのとき「みんなの王子様」になった。みんなのものになるということは、翻って誰のものでもないと言えます。それもやはり「孤高」です。
今回のエピソードから読み取れることのひとつは「人はみないつか独り立ちし、ひとりで自分の道をあゆみだす」ということ。それを孤独と呼ぶのかもしれないけれど、あの人が今も優しく強くあることが感じられるから、自分もそのように歩める。それが薫に残された、千聖との友情の残滓。
“昔のようにあだ名で呼ぶことはもうないけれど”、「ふたり」は「ひとり」と「ひとり」として、向かい合ってお茶を飲むことができる。
そう考えると、『孤独の街』って、すごくこう、うまいタイトルですね。街は孤独と孤独でできている。添え木のように寄り添う甘い時期は終わり、自分の距離で「あなた」と向き合う。
薫は千聖を救えなかった。でも我々は知っている、別れの後に出会いがあり、千聖の物語は続いていたこと。そして今は「自分らしく」笑えていること。
最初にこのエピソードは虫食いと言いました。描かれなかったのはふたつ。
千聖が女優になった真の理由、彼女の言葉の端々に窺える大人の影。
薫と別れたのち、女優ではない千聖と向き合うことができた松原花音と出会うまでの物語。
そういうものをあえて落とし、甘い時間の終焉で幕を閉じる「ふたり」の物語。
しかしそれは同時に「ひとり」と「ひとり」にはまだ先があると明示しているようにも見えます。
それが描かれる時、私たちは何を見て、何を知らされるのか。
しかしいまはまだ、「ひとり」と「ひとり」の孤独と友情に思いを馳せていてもいいですか。