映画「涼宮ハルヒの消失」感想 −長門有希、その「ほんとうのきもち」の在処−(ネタバレあり注意)

 涼宮ハルヒの消失、見ました。
 ちなみに、「消失」原作版は未読です。漫画(角川エース連載の「涼宮ハルヒの憂鬱」)も読んでない。小説は「溜息」で止まってる。
 なぜかっつうと、まっしろな気分で今回の映像化を楽しみたかったからで、その土台となっているアニメ版までしか手を出さないことにしてたんです。

 ハルヒ一期のアニメ化が決まった時から。

 一期のときに消失までアニメ化するんだと思ってたし、ガリガリの原作ファンの予想でもそうだったし、まあそんなに待たなくてもよいだろうと思っていたら、もう4年が経過しているのか。
 長かった。
 これで、「涼宮ハルヒの憂鬱アニメ化決定!」の帯のついた「消失」が読めるよ。あ、「退屈」も買ったまま読んでないわ。こっちは完全にタイミングを逸した。しかし、もうこれで俺を阻むものはいない。存分に読むことにしよう。

 で、待ちに待った「消失」映画の感想を書きます。
 例によってネタバレ全開ですので、要注意です。あまつさえ、パンフのネタバレすらします。あと、この感想の大半は妄想で出来ていることをご了承くださいますよう。

 
















 ということで。
 みなさま、小説「消失」発売当時はこれで長門に転んだらしく、「長門俺の嫁(ぐーぐるさん予測変換しやがった)」が常套句になったのは有名な話。
 それぐらい、消失の長門コーティングは甘く、切ない。サムデイインザレインの流れを汲む沈んだ色使いが上品で、ほのかな街の灯や雪の照り返しが長門を美麗に彩る。長門のちいさな願い、ちいさな恋心。だけどメイビー、ちょっぴりビター。

 みんな、ころっと騙されたもんだ。

 これ、ホラー映画じゃねえの。
 
 長門の起こした時空改変能力、それ自体が怖いんじゃない。いや怖いけども、普段からハルヒが無自覚にどかどかかましているもんだから、今更怖がるようなもんでもない。いや、当人たるキョンは恐慌を起こしてたし、当事者からしたらそらたまったもんじゃないんだけど、視聴者からしたら「またか」レベル。

 しかし。
 その改変内容が怖かった。たぶん俺が怖がってる理由はキョンやみなさまが感じているものとは違う。
 改変後の世界では、SOS団は存在しない。ハルヒにも、その他のSOS団メンバー、もちろん長門込みで、全員に能力は存在しない。彼らはてんでバラバラに、それぞれの生活を謳歌、もしくは淡々と過ごしている。改変後の世界で、彼らは長門のちいさな願いの弊害にしかならないから、そういう「設定」を与えられた。

 順を追って説明する。
 キョンいわく、長門が暴走したストレスの原因(ストレスじゃなく、キョンへの恋心の高まりがそうさせたというスイートな解釈もありますが、さておき)である涼宮ハルヒキョンおよび長門のテリトリーの外に追い出した理由は分かる。改変の目的は、「ふつうの女の子みたいな生活がしたい」なのであって、ふつうの規格外であるハルヒは当然遠ざけられる。ついでのように、転校生設定でハルヒに召喚された古泉も外に弾かれる。不憫ではあるが、ハルヒを独り占めできて嬉しそうではあった。届かぬ想いであっても。朝比奈さんは北高に在籍中であり、メンバーの中で彼女だけが「ハルヒに出会う前の朝比奈みくる」のまま、現在を過ごすことを「許されている」。SOS団が無ければ、彼女とキョンには何の接点も生まれないからだ。事実、キョンは接近するどころか、むしろつっけんどんにつっかえされる。

 こうして、キョンは孤立する。
 そうしたら彼はどういう行動を取るか。それはもう明白である、「長門にすがりつく」。
 もうこれはあの有名な漫画からあのセリフを引用するほかない。「計算通り」、である。もちろん、計算したのは改変前の長門である。

 しかし、長門はふたつのセキュリティホールを作る。ひとつは「キョンだけ改変前のままの設定と人格であり、記憶も残っている」ことであり、ふたつめは「しおり」である。しおりは、憂鬱編での「救済への道標」であり、「今回もそうであるかのように」、前回と同じ本に挟まれている。イージーすぎる。もちろん罠である。
 このふたつの意味するところ。それは、「キョンに世界の選択権を与えた」……のではない。これは違う、と異を称えたい。

 長門は仕向けたのだ。キョンが、自分に告白するように。入部届の件からも明らかである。あの状態の長門はもうキョンに告白しているようなものであるが、実は長門に搭載されていたらしい「乙女心」は自分からの告白を望んでいない。

「やっぱり、告白は男の子の方からしてほしい!」
 これである。入部届は、もう立派なラブレターではあったが、キョンには「そのようには」捉えられていない、幸か不幸か。
 その乙女心の行方はひとまずおいておく。
 とにかく、以上も含めて、改変後の世界は、長門にとって居心地が良すぎる。それはもう、自ら行った時空改変能力だからして、自分の為に使うのは当然であろう。しかし、行き過ぎなほどに良く出来ている。
 それを象徴しているのが朝倉涼子であり、俺がこの映画を「ホラー」と称する一番の理由である。
 
 パンフレットのインタビューで、印象的なシーンを訊ねられた平野綾がこう答えている。
「朝倉が有希の家に来るシーン。男性はわからないかもしれませんが、女の子って怖いなと思いました」
 俺も、あのシーンには戦慄した。たぶん、平野綾とは違う意味で。
 平野はおそらく、長門が部屋に男性を連れ込んだことを察知して、来客がいるにも関わらず部屋に押し入ってきた朝倉の、キョンへの牽制が怖い、と、そう感じたのだろう。行き過ぎた女の子同士の友情の発露がそこにはある。だから「男性には分からない」なのだ。「うちの子に手を出したら……」という脅迫を、朝倉とキョンの第二次接近遭遇で感じ取ったのだ。以降のエレベーターのシーンでそのような内容のセリフが直接的に向けられるが、あの時点でそのアピールを感じ取った平野綾は人の気持ち・人の放つオーラのようなものに人一倍敏感な人なのだろう。

 が、俺の感じた恐怖はそこではない。
「何故、朝倉涼子なのだ。何故、彼女が必要なのだ」
 そこが怖かった。「何故、朝倉」という恐怖はキョンも感じている。第一次接近遭遇、ハルヒの存在の消失が決定的となった朝倉登場シーンでも彼が感じていることの反復。なにしろ、自分を殺しにかかった相手の、ありえないはずの再登場である。えらい動画枚数を要して、スローモーで近づいてくる。取り乱さないわけがない。しかし、二度目の「何故、朝倉」は意味合いが少し変わっている。

「何故、朝倉と長門の間に友人のような接点があるのだ」

 これは謎すぎる。もう一度書くと、今のこの世界は、長門が改変した、長門に都合の良い世界なのである。何故そこで、一度殺し合い、実際に自分が殺している朝倉涼子と仲良く夕飯を食べなければいけないのか。自分の愛しい人を殺しかけた張本人だぞ?これは猟奇的すぎると言わざるをえない。
 ハルヒの身代わりの件も含め、朝倉涼子でなければいけない理由は劇中では明かされていない。別に喜緑でも、メイドの森さんでも良かったはずである。しかし、長門の交友範囲というものは異常に狭く、ハルヒの身代わりに適任な人物が他にいなかった、おそらくただそれだけの理由である。それ以上の理由はない。
 無いはずだ、と信じたい。
 話は戻る。何故、朝倉と夕飯を共にせねばいけないのか。くどいようだが、朝倉でなくても良かったのだが、だがしかし、「夕飯を用意してくれる人物」は必要だったのだ。
 長門は時空改変において「涼宮ハルヒの消失」「SOS団の消滅」それによる「それぞれのメンバーの接点の消失」という「引き算」ばかり行っているが、唯一の「足し算」が朝倉涼子の「長門の友人」設定である。改変前には存在していなかった、長門の友人は何故必要だったのか。「同じマンションに住んでいて」、「世話好きで、ずぼらな長門が心配で」、「夕飯を携えて部屋を頻繁に訪ね」、「クリスマスにマフラーのプレゼントをしようと画策する」ような人物とは、世間一般では何というのか。
「都合の良い友人」である。朝倉自身にとっては純粋な好意なのだろうが、長門視点では違う。少なくとも、消失前の長門が微に入り細に入り設定を構築可能なら、もう少し「まともな」、例えばみくると鶴屋さんのような関係をも構築できたのではないだろうか。引っ込み思案のみくるでさえ、鶴屋さんにはわりと打ち解けた態度を見せることができる。主導権は鶴屋さんにあるにしても。そういう良い手本が身近にあったにもかかわらず、改変後の朝倉は必要以上に過保護に長門に接する。「消失」のリビルド(編集命名)ストーリーである「長門有希ちゃんの消失」では、朝倉は度々「おかあさん」と第三者に茶化される。
 長門は、母が欲しかったのであろうか。それとも純粋に親しい友人が欲しかったのだろうか。時空改変前の世界では、SOS団のメンツとは、それぞれのバックボーンの複雑さから運命共同体にはなれても友人にはなれない。そこが引っかかって、だから、朝倉なのか?それにしたって、もう、朝倉のアレは友人というより「従者」である。食を与え、衣を整えさえ(マフラーね)、住を守るため、キョンを牽制する。
 命令もせず、自分を守ってくれ、見返りを求めない。そんな都合の良い従者を長門は求めていたんだろうか。
 そこが何よりも怖かった。

 好意的に解釈すれば、ほぼ万能に近い力を有していた改変前の長門が、改変にあたりすべての能力を放棄するのだ、不安に感じるのは当たり前かもしれない。だから、自衛のために朝倉を過剰なまでに飾りつけて配置した、ということかもしれない。
 それにしたって、夕飯ぐらい自分で用意せえ、とは思うけども。自炊出来なければせめてコンビニ行け(あの日たまたま朝倉がおでんを持ってきただけでいつもは自分でちゃんとやっている、とも取れるけども、エレベーターでの会話の限りではかなり頻繁にお世話していると取るほうが自然ではないだろうか)。
 いや、もっと単純に、改変後の朝倉は長門の思惑とは異なるたんなるエラーだったのかも。だって、キョン刺しちゃうし。ん、でも、あれ?
 
 この映画の不明確で考察しがいがあるところが、「長門がどこまで先を予知して、どこまでを操作していたか」ということ。朝倉の言うとおり、彼女がキョンを刺したのは「長門の願い」だったのだろうか。長門は自分が暴走することを予期し、しかしそれは防げない確定した未来だと断じている。そこに嘘はないのか。
 
 長門有希は夢をみる。甘く切ない、しかし、ふつうの女の子なら経験できる、ささやかな夢。夢への扉を開いたのは彼女自身であり、またその夢を壊す鍵を用意したのも長門有希本人である。それをキョンに託した真意を、もう一度深く考える必要がある。なにしろ、この件を経て、キョンハルヒへの想いはいっそう膨らんでしまったのであるから、元の木阿弥どころではない。
 では、長門有希は失敗したのか。しかし、夢は見られた。その夢は、彼女とキョンの胸の中にだけ、「真実起こったこと」として刻まれた。そして彼女はかつてのあの図書館で、現実と夢を同時に反芻し、口元を本で隠す。その感情は、今後永遠に隠し続けられるのだろうか。それはそれで、やはり、「甘く、切ない」。