じゅじゅるさん。2

じゅじゅるのへたれ感想ブログ

ガルパからMyGOへ、MyGOからガルパへ 〜問い直される「みんな」、そして共有することとしないこと〜

今、バンドリアニメシリーズ、およびアプリ「ガルパ」ではひとつの分岐点に立っていると私は考えます。それはアニメ・アプリ両方で起きている「みんな」の問い直しという形で。
バンドリ・ガルパにおける「みんな」とは何でしょう。『「〇〇のために」ってなに?』と『「みんなで迷子になろう」とは?』のふたつに分けて振り返ってみたいと思います。
 
これまでアニメ・アプリで描かれた「みんな」からこぼれ落ちたみっつの物語についてと、「みんな」の外の「みんな」についての物語について触れながら、もう一度ここまで描かれてきた「みんな」の形を見つめ直したいと思います。これからの「私たち」の物語がはじまるその前に。
 

「〇〇のために」ってなに?

これまでのバンドリおよびガルパのメインストーリーの基本構成は「誰かが抱える悩みをみんなで共有して解決していこう」というものです。その「みんな」では語りきれなかった物語から見えてくるものがあります。
 
白鷺千聖の「ファンの気持ちを第一に」

千聖の過去でまだ紐解かれていない謎があります。それは「千聖が女優を志すきっかけ」として発する『表現の幅が広がれば人生が豊かになるから』。
この『』は「自分発の言葉ではなく他人からの借り物」であると示唆しています。しかし、この『』は我々プレイヤーだけが感知できる機微で、その言葉を直接受けた幼い頃の瀬田薫にはそれは読み取れていません。つまり、「みんな」とは共有していない彼女だけが抱える「何か」なのです。それはまだ「悩み」とも呼べない小さな違和感。
 
話はパスパレの現時点での最新エピソード「荒野に咲け、花乙女たちよ」に移ります。パスパレの新たなプロデューサーとして就任したナオは丸山彩に難題を与え、彩はそれを無事乗り越えます。そのとき千聖が発した言葉「ファンの気持ちを第一に」にナオは強い違和感を覚え、「白鷺にはがっかり」とはっきり落胆を口にします。この千聖の発言にどのような問題があったのかわからず、パスパレのメンバーはがく然とします。
 
この「女優を志したきっかけ」と「ファンの気持ちを第一に」はあるいは同質のものかもしれません(ファンの気持ちが第一で千聖の気持ちはいくつめなのか?)。ふたつの発言に共通するのはそこに千聖がいないこと。誰かに言わされた言葉と自分を置き去りにした言葉。ここから導かれる(現時点で)千聖の問題として指摘できるのは「白鷺千聖の不在」です。ここに千聖はいるのに、彼女の発する言の葉に千聖が「いない」のです。白鷺千聖の今は「誰のために」あるのか。白鷺千聖はどこに在るのか。
 
山吹沙綾の「家族のために」
「沙綾は自身を誰かのサポート役とだと規定している」とは以前も記事に書きました。
沙綾にとって「家族やみんなのためにできることをする」がアイデンティティでもあるため、「自分のためにしたいことをしなさい」と言われると自分を否定されたと誤認してしまいます。しかし、父との対話を重ねた上で自分の可能性を広げるために大学進学を決意します。その答えに至るまでを描いたイベントストーリー「ベーカリーの明かりは落ちて」のエンディングエピソード「いつかこの空に名前をつけよう」は沙綾と沙綾の父(と担任)だけが登場します。ガールズバンドパーティーのメインメンバーのうちからは沙綾ひとりしか登場しない稀有なエピソードです。三者面談の帰りに父とこれまでこの町で過ごした年月を振り返る2人の姿はポピパのメンバーとは共有されません。何故なら、誰のためでもない、沙綾のための時間だから。
 
今、ガルパは「〇〇のために」の「〇〇」が他者であることに疑義を呈するターンに入っているのかもしれません。ガルパの2度目の「卒業」を描く前段階として「みんな」が揺らいでいます。その最たるエピソードが美竹蘭の「Afterglow解散宣言」でしょう。
 
美竹蘭の「あたしのために」
解散の意思があることをつぐみに気付かれてしまうまで、蘭の中にどのような葛藤があったかは「まだ」Afterglowのメンバーとは共有できていません。しかし、蘭は宣言します。Afterglowの活動は高校卒業までだと。蘭ははっきりと華道で生きていきたい旨を自覚し、そう宣言するのです。「〇〇のために」の〇〇に、はっきりと「あたし」を代入したのです。Afterglowは学校のクラスから、つまり「みんな」から孤立した蘭を救うために作られたバンドです。そのAfterglowの解散とは何を意味するのか。
そのヒントとして、Afterglowの楽曲群に目を向けてみます。
メインストーリー以外でも、楽曲群で歌われるのもやはり「みんな」についてのことが大半です。その中でもひとつの分岐点として指摘できるのは「凛として時雨」とのコラボ楽曲「独創収差」とそのアニメーションMVです。2度目の進級の少し前に発表された楽曲です。
このMVのなかでは「美竹蘭」と「4人」が別の塊として描かれます。そして、歌詞の中には「私」以外存在しません。その中で「私」は夢へと手を伸ばし、「誰にも見えないもの」と対峙します。「誰にも見えないもの」とは何か。蘭の、突き放すような力強いシャウトはAftergrowの特徴でもありますが、この「独創収差」ではメンバー4人を突き放すような切実さを含んでいます。MVの最後では4人の元に戻るかのように見えますが、もうひとりの蘭の存在が不穏さを垣間見せてもいます。
 
 

「みんなで迷子になろう」とは?

アニメ「BanG Dream! It's MyGO!!!!!」およびガルパのMyGO!!!!!第1章では「誰かが抱える悩みをみんなで共有して解決していこう」に乗っかろうとはしていません。
燈は「人間になりたい」と渇望します。
燈自身はクラスに馴染めていないように感じていますがクラスメイトは燈を疎ましく思っているわけでもなく、他の友達と同様のように扱ってくれているのが節々で見られます(特にアニメ版では顕著)。しかしその受容を燈はまっすぐ受け止めることができません。
「みんなで迷子になろう」がクラスメイトからの受容ーーつまり、手を繋ぐとか輪を作るとか一緒に歩んで行こうとか、あるいは「誰かが抱える悩みをみんなで共有して解決していこう」のような「みんな」の有り様を形容するそれらの言葉と違うところは、「私たちは向いている方向は違うけれど『迷子である』ことだけは共有できる」という点だけでかろうじて繋がっていられる状態を示す言葉で、一体感を醸成するために生まれた言葉ではないということでしょう。「迷子」だけがMyGO!!!!!たりえる。
アニメやガルパのMygo!!!!!第1章で描かれた物語は、これまでガルパで紡がれた「みんな」の否定ではなく、それとは別の形の「みんな」の有り様の模索なのではないでしょうか。「みんな」からこぼれ落ちそうになっている人達のための「みんな」。
MyGO!!!!!の面々は燈の「人間になりきれない」という叫びにシンパシーを感じます。心のどこかが「みんな」との乖離を覚え、心に軋みを残す。その「どこか」はメンバーの誰とも一致はしないけれど「人間になれない」ことだけは共感し、共有できる。支え合うのではなく背中を向けて寄り合うのがMyGO!!!!!なのではないでしょうか。本当に、細い糸を渡すような関係だと思います。
「みんなで迷子になろう」はMyGO!!!!!を寄合所として置いておくから存分に人生の迷子をやってこいと言う意味で、
「一生バンドをやろう」は一生が迷子であろうとも生涯にわたりMyGO!!!!!がここにあることを心の拠り所にしてもいいよという意味であると私は解釈しました。
MyGO!!!!!とは一人一人がそれぞれの人生を送り、その過程で時に疲弊したとして、「でもMyGO!!!!!がある」と寄り添える心の中の屋根先なのではないでしょうか。いっときでも雨を凌ぐための。
 
ふたつのテーマを立てて書いてきましたが、前者が誰かのために在ることへの疑義で、後者はそれに対する「誰かのためでなくても共に在ることはできる」という応答とも言えるのではないでしょうか。
 
このふたつが交差することでガルパがこれまで示してきた「みんな」の在り方が問い直されていると私はみています。