じゅじゅるさん。2

じゅじゅるのへたれ感想ブログ

ガルパからMyGOへ、MyGOからガルパへ 〜問い直される「みんな」、そして共有することとしないこと〜

今、バンドリアニメシリーズ、およびアプリ「ガルパ」ではひとつの分岐点に立っていると私は考えます。それはアニメ・アプリ両方で起きている「みんな」の問い直しという形で。
バンドリ・ガルパにおける「みんな」とは何でしょう。『「〇〇のために」ってなに?』と『「みんなで迷子になろう」とは?』のふたつに分けて振り返ってみたいと思います。
 
これまでアニメ・アプリで描かれた「みんな」からこぼれ落ちたみっつの物語についてと、「みんな」の外の「みんな」についての物語について触れながら、もう一度ここまで描かれてきた「みんな」の形を見つめ直したいと思います。これからの「私たち」の物語がはじまるその前に。
 

「〇〇のために」ってなに?

これまでのバンドリおよびガルパのメインストーリーの基本構成は「誰かが抱える悩みをみんなで共有して解決していこう」というものです。その「みんな」では語りきれなかった物語から見えてくるものがあります。
 
白鷺千聖の「ファンの気持ちを第一に」

千聖の過去でまだ紐解かれていない謎があります。それは「千聖が女優を志すきっかけ」として発する『表現の幅が広がれば人生が豊かになるから』。
この『』は「自分発の言葉ではなく他人からの借り物」であると示唆しています。しかし、この『』は我々プレイヤーだけが感知できる機微で、その言葉を直接受けた幼い頃の瀬田薫にはそれは読み取れていません。つまり、「みんな」とは共有していない彼女だけが抱える「何か」なのです。それはまだ「悩み」とも呼べない小さな違和感。
 
話はパスパレの現時点での最新エピソード「荒野に咲け、花乙女たちよ」に移ります。パスパレの新たなプロデューサーとして就任したナオは丸山彩に難題を与え、彩はそれを無事乗り越えます。そのとき千聖が発した言葉「ファンの気持ちを第一に」にナオは強い違和感を覚え、「白鷺にはがっかり」とはっきり落胆を口にします。この千聖の発言にどのような問題があったのかわからず、パスパレのメンバーはがく然とします。
 
この「女優を志したきっかけ」と「ファンの気持ちを第一に」はあるいは同質のものかもしれません(ファンの気持ちが第一で千聖の気持ちはいくつめなのか?)。ふたつの発言に共通するのはそこに千聖がいないこと。誰かに言わされた言葉と自分を置き去りにした言葉。ここから導かれる(現時点で)千聖の問題として指摘できるのは「白鷺千聖の不在」です。ここに千聖はいるのに、彼女の発する言の葉に千聖が「いない」のです。白鷺千聖の今は「誰のために」あるのか。白鷺千聖はどこに在るのか。
 
山吹沙綾の「家族のために」
「沙綾は自身を誰かのサポート役とだと規定している」とは以前も記事に書きました。
沙綾にとって「家族やみんなのためにできることをする」がアイデンティティでもあるため、「自分のためにしたいことをしなさい」と言われると自分を否定されたと誤認してしまいます。しかし、父との対話を重ねた上で自分の可能性を広げるために大学進学を決意します。その答えに至るまでを描いたイベントストーリー「ベーカリーの明かりは落ちて」のエンディングエピソード「いつかこの空に名前をつけよう」は沙綾と沙綾の父(と担任)だけが登場します。ガールズバンドパーティーのメインメンバーのうちからは沙綾ひとりしか登場しない稀有なエピソードです。三者面談の帰りに父とこれまでこの町で過ごした年月を振り返る2人の姿はポピパのメンバーとは共有されません。何故なら、誰のためでもない、沙綾のための時間だから。
 
今、ガルパは「〇〇のために」の「〇〇」が他者であることに疑義を呈するターンに入っているのかもしれません。ガルパの2度目の「卒業」を描く前段階として「みんな」が揺らいでいます。その最たるエピソードが美竹蘭の「Afterglow解散宣言」でしょう。
 
美竹蘭の「あたしのために」
解散の意思があることをつぐみに気付かれてしまうまで、蘭の中にどのような葛藤があったかは「まだ」Afterglowのメンバーとは共有できていません。しかし、蘭は宣言します。Afterglowの活動は高校卒業までだと。蘭ははっきりと華道で生きていきたい旨を自覚し、そう宣言するのです。「〇〇のために」の〇〇に、はっきりと「あたし」を代入したのです。Afterglowは学校のクラスから、つまり「みんな」から孤立した蘭を救うために作られたバンドです。そのAfterglowの解散とは何を意味するのか。
そのヒントとして、Afterglowの楽曲群に目を向けてみます。
メインストーリー以外でも、楽曲群で歌われるのもやはり「みんな」についてのことが大半です。その中でもひとつの分岐点として指摘できるのは「凛として時雨」とのコラボ楽曲「独創収差」とそのアニメーションMVです。2度目の進級の少し前に発表された楽曲です。
このMVのなかでは「美竹蘭」と「4人」が別の塊として描かれます。そして、歌詞の中には「私」以外存在しません。その中で「私」は夢へと手を伸ばし、「誰にも見えないもの」と対峙します。「誰にも見えないもの」とは何か。蘭の、突き放すような力強いシャウトはAftergrowの特徴でもありますが、この「独創収差」ではメンバー4人を突き放すような切実さを含んでいます。MVの最後では4人の元に戻るかのように見えますが、もうひとりの蘭の存在が不穏さを垣間見せてもいます。
 
 

「みんなで迷子になろう」とは?

アニメ「BanG Dream! It's MyGO!!!!!」およびガルパのMyGO!!!!!第1章では「誰かが抱える悩みをみんなで共有して解決していこう」に乗っかろうとはしていません。
燈は「人間になりたい」と渇望します。
燈自身はクラスに馴染めていないように感じていますがクラスメイトは燈を疎ましく思っているわけでもなく、他の友達と同様のように扱ってくれているのが節々で見られます(特にアニメ版では顕著)。しかしその受容を燈はまっすぐ受け止めることができません。
「みんなで迷子になろう」がクラスメイトからの受容ーーつまり、手を繋ぐとか輪を作るとか一緒に歩んで行こうとか、あるいは「誰かが抱える悩みをみんなで共有して解決していこう」のような「みんな」の有り様を形容するそれらの言葉と違うところは、「私たちは向いている方向は違うけれど『迷子である』ことだけは共有できる」という点だけでかろうじて繋がっていられる状態を示す言葉で、一体感を醸成するために生まれた言葉ではないということでしょう。「迷子」だけがMyGO!!!!!たりえる。
アニメやガルパのMygo!!!!!第1章で描かれた物語は、これまでガルパで紡がれた「みんな」の否定ではなく、それとは別の形の「みんな」の有り様の模索なのではないでしょうか。「みんな」からこぼれ落ちそうになっている人達のための「みんな」。
MyGO!!!!!の面々は燈の「人間になりきれない」という叫びにシンパシーを感じます。心のどこかが「みんな」との乖離を覚え、心に軋みを残す。その「どこか」はメンバーの誰とも一致はしないけれど「人間になれない」ことだけは共感し、共有できる。支え合うのではなく背中を向けて寄り合うのがMyGO!!!!!なのではないでしょうか。本当に、細い糸を渡すような関係だと思います。
「みんなで迷子になろう」はMyGO!!!!!を寄合所として置いておくから存分に人生の迷子をやってこいと言う意味で、
「一生バンドをやろう」は一生が迷子であろうとも生涯にわたりMyGO!!!!!がここにあることを心の拠り所にしてもいいよという意味であると私は解釈しました。
MyGO!!!!!とは一人一人がそれぞれの人生を送り、その過程で時に疲弊したとして、「でもMyGO!!!!!がある」と寄り添える心の中の屋根先なのではないでしょうか。いっときでも雨を凌ぐための。
 
ふたつのテーマを立てて書いてきましたが、前者が誰かのために在ることへの疑義で、後者はそれに対する「誰かのためでなくても共に在ることはできる」という応答とも言えるのではないでしょうか。
 
このふたつが交差することでガルパがこれまで示してきた「みんな」の在り方が問い直されていると私はみています。

メガドライブミニ2勝手予想

メガドライブミニ2に収録予定のゲーム、50本プラスアルファから既に発表済みのものを除いて40本を予想してみました。
予想というか、バランスも人の声も聞いていない、自分が欲しいものを勝手気ままに選びました。
そりゃねえだろというのもあるかもしれませんが、てきとーな気持ちで見てやってください。
 
メガCD15本
ルナ1・2
慶応遊撃隊
幻影都市
シルキーリップ
アーネストエバンス
ソウルスター
バリ・アーム
アネット再び
 
バトルマニア大吟醸
パノラマコットン
ヴイ・ファイヴ
エクスランザー
バハムート戦記
エレメンタルマスター
アラジン
アイラブドナルドダック グルジア王の秘宝
新創世記ラグナセンティ
TATSUJIN
ドッジ弾平
スパークスター ロケットアドベンチャーズ2
ツインクルテール
エアロブラスターズ
クライング
サージングオーラ
魔王連獅子
ヴェリテックス
アローフラッシュ
バトルゴルファー唯
 
プラスアルファ適当予想
スナッチャー(2本とも日本未発売)

バンドストーリー3章も佳境、戦うガールズバンドパーティー!

バンドストーリーも残すところRoseliaのみ。そのラス前を務めるPoppin‘partyの3章はなかなか熱のこもったものでした。
配信ライブを企画するポピパでしたが、オーナーに一蹴されてしまう。
「すべてのミュージシャンに対しての冒涜だ」とまで言われてしまいますが……。
 
 
まず、これまでのバンドストーリー3章を振り返ります。
 
先陣を切るAfterglowが、オーディションを開きながらも集客力しか見ていないプロデューサーに反旗を翻すところから始まります。
 
 
つづくPastel✽Palettesは事務所の後輩のデビューによって自分たちの立場について考えるお話。

そしてハロー、ハッピーワールド! は、世界を笑顔にするとこぼれ落ちるものについてのお話でした。

 
この3バンド、そしてポピパに共通するのはバトル色の強いものになってるって事でしょうか。
これまでのバンドストーリーと言えばさまざまな障害が立ちはだかってもみんなの絆で乗り越えようといったもの。バンド内の問題を絆の力でクリアしていくという流れでした。
 
今回の第3章は明確な『敵』が設定されているところが今までとの大きな違いです。(誤解なきよう捕捉しますが、パスパレの敵は後輩バンドではなく事務所の『意向』(特にその意向をきちんと伝えないのがまたスタッフめらの悪いクセ)のほうで、ハロハピ編は明確な敵はいなさそうだけどは弦巻こころが明後日の方向に突っ走った結果、意図せず内なる敵として立ち塞がるというちょっとねじれた構成)
 
ガルパのテーマは単純明快で、『絆』この一文字で言い表すことができると言えましょう。が、この一文字にはピッコロ大魔王を封じ込めた炊飯器の如く、渦巻く情念が込められています。
今回はその情念を解き放ち、世の理不尽とバチバチやりあうさまが描かれました。
 
一番槍となったアフグロがすごくあっけらかんとした爽快感のあるものとなっていたのも良かったですね。つづくパスパレ、ハロハピが捻ったものになっていたので。
アフグロが火をつけてパスパレとハロハピで煙をもくもく焚いていく。不穏さを醸しながら戦う姿勢を打ち出していった。
絆の、その先の風景。
 
キラキラキズナしてきたガルパ世界から一歩踏み出し、外の世界の壁と対峙する。そういう季節が第3章だったと理解しています。
その気持ちの良いアクセルベタぶりが私を揺さぶりました。
 
特に今回、ポピパが立ち向かう壁はオーナーです。ポピパのメンバーにとっては到底頭の上がらない恩人であり、直近で言えば武道館で「全員頑張ったで賞」を贈呈した絶対権力者です。
さらにはオーナーはポピパの新しい挑戦に対し「すべてのミュージシャンに対しての冒涜だ」とまで言い切った。
お前らははみ出すなと言っているようにも聞こえる……。そんなのありえんのかよ。
 
 
絆を結び合うのは美しい。そのキラキラを我々は「尊い」と言って摂取してきた。そしてみんな素晴らしいね、青春だねと均してきたのは我々ファンであり、武道館の席を競い合わせた挙句「お前らみんなやり切った」と一列に均したオーナーと我々はなんら変わりません。
それで終わったら人形遊びじゃないですか。綺麗に雛壇に並べ鑑賞するグロテスクさ。
そこから飛び出して我々の傲慢さをぶん殴ってきたのが第3章だと思うのです。
 
 
そして最後に残されたのがRoselia。自ら設定した目的を達成、その後多くのレコード会社からメジャーデビューのオファーが舞い込んでくる大人気バンドとなった彼女ら。そこに現れる『敵』は果たしてどんなカタチを成しているのか。そしてRoseliaはどのようなファイトスタイルで挑むのか。
 
結んだ絆は意思を貫き通すボイスとなる。キズナの次のステージにしんがりが挑む時、我々は何を見て、何に殴れらるのか。傲慢の鎧を脱ぎ捨て、生身でその衝撃を受け止めねばなりません。

そしてもう一度振り返る山吹沙綾とCHiSPAの物語

イベントストーリー「Welcome To Open school!」読み終わりました。

ポピパ箱イベなんですが、山吹沙綾さんについてのさらなる掘り起こしがありました。

このブログでは何度か沙綾についての記事を書いてきました。

 

jujuru.hatenablog.com

この記事では「沙綾は自分を誰かの、もしくはみんなをサポートするのが役割だと思っている」と書きました。これはポピパ一年生の時、アニメバンドリ一期を見た当時の僕の所感です。


jujuru.hatenablog.com

こちらは前記事と同年に公開されたガルパ内イベント「HAPPY Poppin'Xmas」で描かれた事を踏まえて沙綾とCHiSPAがこれまで歩んできた道程について書きました。

 

jujuru.hatenablog.com

こちらはアニメ二期9話の感想なんですが、半分以上沙綾の話です。彼女のネガティブな部分が出ているお話で、それが他のポピパメンバーとの温度差を生んでいるという内容です。

 

どうして僕はここまで沙綾が気になってるんでしょう。沙綾がピックアップされているエピソードなら、ガルパ内だけでも、薫さんの別荘に行く話とか趣味探しなどのポジティブなお話もいっぱいあるんですね。でも上記3つはネガティブな部分を大きく含んでいる。そこが気になるのか? と言えばそうとばかりは言えなくて、「沙綾にとってのCHiSPA」に触れる(もしくはCHiSPAの影を感じる)エピソードがすっごい好きなんですよ……。

 

沙綾が立ち止まる時、脳裏を何度もかすめるCHiSPAのみんなの姿。これからポピパが何年続こうとも、CHiSPAと過ごした日々は沙綾の中でかけがえない時間だったはず。と、感じるわけです、が! 行き詰まった時にポップアップするのもCHiSPAだったりするんですよね……。しかし今回はどうだったか。ある一通のアンケート用紙を見つけた沙綾はCHiSPAを笑顔でいた思い出として振り返るんです。

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 僕は「今だからこそ語る山吹沙綾とCHiSPAの物語」と言う記事でこう書いています。

 

今後も、沙綾の新たな面を見ることになるでしょう。そのときにポップアップされるCHiSPAの面々が今度は優しく微笑んでいてくれているだろうと、今は確信を持って言えます。

そのときがついに訪れたわけで、感無量なわけです。

ガルパでは明るい沙綾が描かれる一方、アニメ二期や午後の紅茶コラボでは寂しそうな一面を見せたり、ファンとしてはもやもやする時期がありました。

 

CHiSPAは沙綾を笑顔にする、彼女の大切な友達なんです。彼女達はつねに笑顔で沙綾に接してきた。沙綾がCHiSPAを辞めた後も。CHiSPAとの日々は悲しい思い出なんかじゃなかった。互いに笑える日々はもうすでにとなりにあった事に沙綾は気づきました。長かったよ……。

 

山吹沙綾はPopp'nPartyの山吹沙綾だけど、CHiSPAのみんなもまた大切な友達。あの体育館前の出来事から沙綾とCHiSPAの時計の針は再び動き出していたんだと、一枚のアンケート用紙が思い出させてくれた。

これからまた僕が山吹沙綾さんとCHiSPAの記事を書く時には、もうネガな事は書かないでしょう。それを確信した、心に残るエピソードとなりました。

エヴァンゲリオンをただ静かに眠らせて

コロナで公開延期になっていたシリーズ最終作「シン・エヴァンゲリオン劇場版」の公開日がきょう発表になりました。今をときめく「鬼滅の刃」の劇場版で予告が流れたそうです。

 

 

今の気持ちを率直に語るなら、僕自身年齢相応にガタが来ているが、まだ総崩れとはいかないうちにエンドマークをつけてくれそうで、まずは安心しています。何より、ご高齢の演者さんがいらっしゃって、不謹慎ではありますがいろいろヤキモキしていたのもあり、これで肩の荷が降りたかな、というのが正直なところです。

 

エヴァについてはこのブログではあまり触れてきませんでした。「序」と「破」の公開時に簡単な感想を載せたくらいでしょう。「Q」は、ちょっと感想書けるテンションじゃなかったです。

jujuru.hatenablog.com

jujuru.hatenablog.com

 

読んでいただければ分かる通り、新劇に関しては一貫してエンタメ、娯楽映画として楽しんでいます。シンジの内面世界がどうとか、アスカの危うい精神状態とか、もうそういうのはどうでもいいよ、前と同じじゃなくて良いじゃん、てスタンスです(アスカはたくましくなりましたよね。加地さんへの恋愛要素がオミットされたのもよかった。でもあの子、惣流じゃなくて式波さんだしなあ……)。それはやり尽くしたし、リブートするなら新たな切り口から見せて欲しい。意味ありげな専門用語を吹っかけまくる作風についてももう古いなと感じていましたが、「Q」を見て確信しました。これはすべての謎を解明する気ないな、と。まあそもそもTV版からし意味深なタームを多用して煙に巻くシリーズですからね……。シンちゃんが何を成すのか/成さないのか、それだけに焦点を絞って描かれるのではないでしょうか。それで良いとは思いますが、それにしては撒き餌が多すぎるんですよ。

 

gigazineに新劇場版プロジェクト発表時の庵野秀明総監督の所信表明が残されています。

gigazine.net

 

そこでは、「誰もが楽しめるエンターテイメント映像を目指します」と締め括られています。僕はこの言葉を素直に歓迎しました。

テレビ版最終回にせよ、旧劇にせよ、私は見たいものを見ることができなかった。これは僕個人の意見です。どちらも楽しめはしたんですが、「違う、そうじゃない」という思いは消せません。

 

劇場公開直前の僕は浮かれていました。大スクリーンで「真のエンディングが見れる」、それがどれほど嬉しいことか。春エヴァのアスカの(偽りの)復活、鳥肌の立つエンディング入りの美しさ。夏が楽しみで仕方がなかった。

 

これはほんとに反省しているのですが、春・夏エヴァとも、松竹系の小さな映画館の外側に何時間も行列を作ってしまっていました。近隣の住民の方々には大変迷惑だったことでしょう。ごめんなさい。僕は長い待ち時間、前に並んだ見知らぬ人とエヴァ談義に興じていました。カバンに忍ばせたスキゾ・パラノエヴァンゲリオンを取り出し、なにやら自分の手柄のようにエヴァの裏側を解説した記憶があります。若気の至り。劇場に入場し、再び顔を合わせることはありませんでしたが、とても聞き上手な方でした。いまはどうなさっているのかな。汗をかきかき、好きを共有する。それは楽しい待ち時間でした。

 

視聴後、僕の胸中はめちゃくちゃでした。

僕は並み居る量産機と大暴れする初号機が見たかった。僕の目には、テレビ版と旧劇は同じものにしか映りませんでした。テレビ版でシンジが補完されている最中、弍号機は外の世界で壮絶な戦いが繰り広げていました。アスカの無残な姿を目にした初号機が、量産機を相手に仇討ちを繰り広げる様が見たかった。初号機には主役たる活躍をして欲しかった。しかしそうはなりませんでした。メタ的な表現を用い、いつまでもエヴァに縛られている熱狂的なファンに再び冷や水を引っ掛けました。僕は観劇後、欲しいグッズを前もって書き記す用紙を一度は手にしたものの、それをポケットにしまって劇場を後にしました。はやく現実に帰らないと。庵野監督がそれを望んでいる。僕も、もう束縛されたくなかったのです。

 

見たいものは見れませんでしたが、反面、気分は清々しかったように思い起こされます。もうこれで、エヴァから卒業できる。が、結果としてそうはならなかった。

 

仕事がうまくいかず、精神的に荒れていました。そして二度三度映画館に足を運ぶことに。最後の方は、「この世界の片隅に」で有名になった土浦の映画館の自販機で買ったゴムみたいな歯応えの焼きそばを観覧中食しながら(マナー違反でしょうが、劇場はすっからかんでした。とはいえ、申し訳ない)弐号機がむしり食われる様を淡々と眺めていました。かなり精神状態がよろしくなかった。僕はエヴァに依存するようになりました。

家にはエヴァ関連書籍がどんどん増えていきました。コンテ集はもとより、エヴァとは程遠いカルチャー誌の表紙を飾ったものも買いました。怪しい謎本もいくつも買ったし、とんねるずのオークション番組で等身大綾波を手に入れた方の同人誌も買いました。第24話の初期コンテ(脚本だったかな?)が載ったJUNEや、チョコレートショップさん独自の解釈による、オリジナルの展開を見せる別解釈の終盤が収録された美麗な同人誌は今でも宝です。しかしそれでもモヤモヤが解消されることはなく、情熱はグッズ類にも及びました。カードダスは一通り揃えたし、懸賞や誌上通販で特別仕様のテレカをいくつも手に入れたりもしました。極め付けは、新宿で綾波とアスカのテレカが付いてくる前売り券の販売で恐ろしい人が殺到し、その異様さはニュースにもなったあの一品。僕は地元でほぞを噛んでいましたが、やがてグッズ類も扱う古本屋で3万円を投じて二枚セットを購入しました。当時出たテレカはほとんど手に入れたんじゃないかな。そんな状態は二年は続き、新しい職場に移ってしばらくした頃にはなんとか熱は抑えられるようになっていました。生活が危うくなっていることを自覚できているうちになんとか離れることができたのです。

 

それから平穏な日々が続いたある日、新劇場版のプロジェクトが発表されました。そこで、くだんの所信表明です。僕は安堵しました。もう二度と、沼に飲まれることはないだろう。見たかったものが、今度こそ見れるという期待感がありました。

「序」「破」はおおむね僕の望んだエンタメ作品のように思えました。他の人の捉え方は様々でしたが、ただひとり、この映画を見てどのような感想を持ったか、知りたい人がいました。

熱狂的なアヤナミストである滝本竜彦さんです。

 

彼は「BSアニメ夜話」のエヴァ回で異彩を放っていました。当時の言葉を借りると「電波」で、綾波愛をNHKで熱弁しました。そんな彼が21世紀を迎えて幾数年、胸を掻き毟るような心理的圧迫感を(極力)オミットした「破」をどう評価するのかとても興味を覚えました。ちょうどその頃、「超人計画1.5」というコピー誌にオシオさんという方と滝本さんのエヴァについての対談が収録されると聞きました。これは買わねばと、コミケで(多分コミケで合ってたと思う)いの一番にサークルに赴きました。僕は「こんな綾波綾波じゃない!」と激昂する滝本さんを想像していたのですが、彼はかなり「破」を好評価されていました。

綾波自身、幸せになれそうでよかった!」と仰り、物議を醸した「ポカ波」についても肯定的でした。

僕自身はというと、エンタメとして大迫力の戦闘シーン、旧作では見られなかった人々の思いやりに救われた想いがありました。もう、エンタメでいいんです。庵野総監督がそう宣言されていたわけだし。

僕も滝本さんも相応に年を取った。過酷な現場に放り投げられたチルドレン達のしんどさを自分に投影できる年齢でもなかった。ただ、彼らが理不尽から解放される世界を望んでいました。

 

ところが、「Q」では過去の、旧劇までの息苦しさが復調していました。エンタメのエヴァを見たかった自分としては「それはもうやったでしょ」という気分でした。

アクション面の振るわなさも不満でした。ビットのようなものでちくちく攻撃するエヴァはらしくない。肉と肉、暴力と暴力がぶつかり合う生々しさが薄いと感じました。テレビでも先行放送された序盤が一番キレキレでしたね。

また、劇中で14年もの空白を作ったのに、コミックや小説などのメディアミックスで空白期間を埋める展開をしなかったのも個人的に不満でした。加地の知り合いのおっさんオペレーター、部下の男性にキツく当たる伊吹マヤについて他のメディアで描いていたらそれなりに「Q」の変化にも適応できたと思うんですね。そしてそれ以上に「破」で「行きなさい、シンジくん!」と発破をかけたミサトさんレジスタンス組織の偉い人になっているのもまた違和感を覚えました。正直言って、ネルフの実質ナンバースリーであり現場責任者であったミサトさんレジスタンスを率いて多くの人の上に立つなんて、ちょっと理屈合いませんよ。大災害に加担した彼女は地獄のような目に遭ったはずで、そこから這い上がる物語をどこかでやって欲しかったですね。

 

でも、そういう謎や矛盾の数々が残り映画一本で全て収束されるとはとても思えず、僕がシン・エヴァに望むのは「シンちゃんと初号機の大暴れ」でしかないわけです。旧劇で果たせなかったそれを見るためだけに、僕はいつものように初日に鑑賞しに行きます。

しかしそれとは裏腹に、僕には当時の熱気がない。どんなに面白かろうが、駄々滑りしようが、ただしめやかにエヴァを送るだけでしょう。一時期僕を狂わせた愛おしくも憎々しい作品の最期を看取る気持ちです。いまはとても心が落ち着いています。僕の長いエヴァとの物語にエンドマークが付く日まで、ただ粛々と日々を過ごしたいと思います。

Afterglow3章『ONE OF US』感想 〜夕影鋭くなって〜 (ネタバレあり)

Afterglow3章『ONE OF US』読み終わりました!早速感想書きますね。

 

 

以下ネタバレです。行開けます。

 

 

 

 

 

 

 

 

Afterglowで見てみたかったふたつの要素を満たしたお話だったのでかなり満足です。まずひとつは反抗の物語。

 

Afterglowは学生の、大人や社会に向けての反抗の歌を、主にカバー曲では歌っていたりするんですね。そういう時の美竹蘭のボーカルの鋭さは多くの同世代のファンに刺さり、ニコニコ動画に挙がった「歌ってみた動画」にはバンドリ以外のファンも惹かれていった。あそこって10代の反抗心、反逆心、迷いや憂い、そうした鬱屈した想いを含んだ曲が生まれる土壌があると思うんです。

そういう要素って、Afterglowの曲としては一番最初の『That Is How I Roll!!』が頂点で、それ以降はちょっと影を潜めるんですね。蘭が父親とぶつかって以降、お話としても誰かへの反抗みたいな要素は薄まっていく。5人の間でぶつかる事はあってもね。ところが、今回は理不尽へガッと切り込んでいくところから始まったんで、ドライブ感が凄まじかったですね。

Afterglowはもともと不良みたいなことを自分達も自虐的に言うわけだけど、彼女らの歌は等身大の自分、日常を素直に歌った曲が多い。そこが物足りなかった点で、理不尽に毅然と立ち向かい、膝をついても立ち上がる姿が見れた。これがまず一点。

 

二点目は、自分達を見にきてくれている人達へ視点を向けること。Afterglowは初期5バンドの中では一番内向きで、ずっと自分逹5人のことを歌ってきたように感じています。それが悪いわけではないんだけど、でも、それが我が事のように刺さっている人たちがオーディエンスの中にいっぱいいた。そこにはあまり目を向けて来なかった。

ファンからの視線に気付けたのは大きい。『ONE OF US』はまさにそれを歌った曲。”US“には5人以外の人も含まれている。外向きの曲なんですよね。いや、「内」が広くなった、と言ったほうがいいかな。

報酬星3つぐみ左エピに登場するのがアニメ3期でファンが自分達を支え続けてくれたことに気付き、『Avant-garde HISTORY』を作曲するに至った氷川紗夜(詩は従来通り友希那さんかもしらんが、Roseliaの共通見解って感じがするな)(前後のエピソードを踏まえるとあの曲の「私達」はファンを含めた広い言葉のように聴こえる)、ファン同士の諍いに仲介に入るほどにファンの事を(過剰なほどに)思い続けていた若宮イブの2人であったことはもちろん意図してそうしたことでしょう。

そのほか、『みんなを笑顔に』を掲げるハローハッピーワールドは言うに及ばず、『Step×Step!』で朝日六花の背中を押したPoppin'Partyもそう。ステージに立った時、誰に向けて、何を歌うのか。それは初期5バンドに共通する命題、いや、世にいる表現者はみなそこと何度も向き合う事になる。Afterglowが見据える夕景のその手前にファンの姿がある事。それを感じ取れるエピソードだったのが良かったですね。

 

あとはさあ、やっぱ「えいえいおー」ですよね……。あれを全員で言うやつ、絶対切り札として取っておいたと思うんですよね、ガルパ運営。良いところで切ってきましたね。

 

もっと言いたい事もいっぱいありますけど、イベント初日ですから。あとでTwitterでなんか呟いたりもすると思います。最近Twitterとは少し距離取っていましたけど、こんないいもん見せられたんだから、もう少しみんなと語り合いたいですね。

『それぞれ』を想う

世の中大変なことになってきました。

不要不急の外出は避けてと言われ、学校も始まったり始まらなかったり。

多くの著名人が「今は団結のとき」と呼びかけています。

おしゃれをしたいし、音楽を聴きに行きたいし、おいしいものを食べに行きたい。

服を売りたいし、音楽を聴かせたいし、おいしいものを食べてもらいたい。

エトセトラ、エトセトラ。

ありますよね、みんなもしたいこと。しなきゃいけないこと。

でも、今はその多くができません。

緊急事態宣言がまもなくされます。

危機意識を持って行動を。思いをひとつに。私も異論はありません。

しかし、この、ひとつになる圧が大きくなればなるほど、みんなが大事にしたい、ひとりひとりの中にある『それぞれ』がないがしろにされます。

今日はそんな『それぞれ』についての話です。

 

私の好きなVtubarさんの話をします。

彼女は皇牙サキさんと言いまして、一発目の配信で「薩摩義士伝」語りをし、コアな漫画マニアを唸らせたギャルです。その後も漫画語りを中心に活動されています。


3分でわかる皇牙サキ

彼女の配信のシメやTwitterのつぶやきで良く使われるフレーズがあります。

 

「みんなそれぞれ楽しいことしてて」

「みんなそれぞれ人生してて」

「それぞれ好きに生きて」 

 

Vtuberさんの配信って不思議なもので、その人が好きであることを共有する仲間が画面の向こう側にたくさんいる状況、なかなか無いですよね。ネットが普及する前はライブハウスに行くとかファン同士で集うオフ会とかで行っていた、そういう特別で得難い時間が今は1日のどこかに存在する。

Vtuberさんは星の数ほどいて、誰かが配信を休んでいても別の誰かには会える。1日のいつでも誰かはいる。それって凄いことですよね。ずっとそこにいたいとさえ感じる。

しかしサキさんはそれをぶった斬るように、無慈悲に幕を閉じます。

「それぞれで生きてね」、と。

 

はて。

『それぞれ』って、なんでしょう? 

 

Vtuberさんの配信を見ている間、みんなが好きなひとのほうを向いて輪になってる。ネットに居場所ができたような、そんな気分にさせてくれます。とても大切な時間です。

でも、配信が終わったら『それぞれ』が始まります。配信の時間は心地よいが、そのあとは『それぞれ』をしなければいけない。したいこと、したくないこと。それぞれの『それぞれ』を生きよう。輪になるだけでは人は生きていけない。自分の足で歩いて生きていかなければいけない。

そういうことをサキさんは言いたいのかもしれません。

 

それと同じようなことを訴えていたアニメが放送されていました。

「22/7」です。

 

「22/7」は一見、女の子たちがアイドル活動をしていく中で思いをひとつにしていく過程を描いているように見えます。彼女たち「22/7」、通称ナナニジはグループアイドルですから、団結って大事ですよね。

第9話で「みんながひとつになってる、そう感じる」という主人公・みうの独白があり、ナナニジメンバー全員で同じ星空を眺めます。一見、団結の素晴らしさを説いているようにも見えます。

その次のシーンで、ものすごくどうでもいいことで喧嘩しはじめるんですけどね。

みんなで大貧民をやって、アホっぽい騒ぎになって、その後方、ひとりタブレットで絵を描いている絢香って子がいるんです。僕はこの状況がとても好ましいと思っていて。

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同じ気持ちを宿した同志だと無言で確認しあった後に、みんなの輪の中に入らない子がいて。で、その状況をみんな暗黙のうちに良しとしている。

 

『それぞれ』なんですよ。みんなでゲームをしていてもたったひとり絵を描いてていい。絵を描いている人は『それぞれ』をやっているんだから放っておいても良い。大貧民だって、たまたま『それぞれ』がやりたいからやっているだけなので簡単に喧嘩にもなる。そういう図だと思うんです。

 

「22/7」は“壁”の指令のもと、無理難題をこなしながら、バラバラだった心がどんどんひとつになっていく様を描いています("壁"ってなんでしょうね。なんのメタファーか、みんな考えてみてください)。

それと並行して、それぞれの孤独についても描かれます。

家族の生活を支えなければいけない事情。大好きだった祖母との約束。父探しの上京。闘病の最中、友を喪った過去。自身の身勝手が両親の離婚につながってしまったという負い目。姉妹の不仲。そして、ある出会いから人生が変わったこと。

それは、『それぞれ』が抱える孤独で、痛みを伴うものだけれど、だれとも共有しない。生き抜くために必要な、誰にも侵されてはならない大切な孤独なんです。いっときの居場所ができて、何かを分かち合い、何かを分かち合わない。そういうものが「個」を作っていくのだと、そういう物語だったのだと思います。

 

9話に絢香のこんな台詞があります。

「私はあんまり考えたことないなあ、ここが自分の居場所か、とか」
「居場所より歩き続けることが大事」
「みんなちがくて当たり前じゃん、でも同じ方向を向いてるだけで、あ、一緒かも、と思えることもあるよ。大体、そんなに変わらないよ、私もクリステルも」
「ひとりが好きで、ひとりが嫌いで、しっかりしてて、だらしなくて。頭良くて、頭悪くて。強くて、弱くて。ただのかわいい女の子?」

「みんなちがくて当たり前」だけど、「一緒かも、と思えることもある」。とても大事なことを言っています。

私たちの中には侵されざるべき領域があり、でも、これくらいまでは分かち合いたいかな。そう思えることもある。

 

しかし私たちは歩かなければ生きていけない。同じ方向を見てここに留まるのは「今」だけなのだと思います。もしかしたら、それは悲しいことなのかもしれませんが。

 

今、世界中の人たちがコロナに打ち勝つことを願っています。今は一緒かも、と思える。それが瞬きのような時間でも存在する。でも、人には『それぞれ』があって、それは団結によって押しつぶされてはならないことです。

危機を前にして団結することは素晴らしい。しかし、その効力があまりにも効きすぎて、『それぞれ』の孤独、『それぞれ』の表現、『それぞれ』の生き方が尊重されにくくなる状況が今です。

 

「今は我慢の時」多くの著名人が言います。おそらく正しい。でも、私は、こんな時だからこそ、多くの人の『それぞれ』を想いたい。そんな気持ちでこのブログを書いています。

あなたの『それぞれ』を侵略されてはならない。この先、さらに強い言葉が上から降ってきます。それらを見逃してはなりません。あなた自身が、あなたの『それぞれ』を守る行動をしなければいけない時が来ます。

 

あなたがしたいこと、あなたが我慢していること。私はそれを知ろうとはしません。ただ、内に秘めた、あなたにしか輝かせることのできない『それぞれ』を、今は想います。